妖アパ・妖怪アパートの幽雅な日常 ファンサイト

妖アパ・妖怪アパートの幽雅な日常のあらすじ(ネタバレ含)とか、名言とか、主人公ほかキャラクター紹介、好きな場面とか、です。

変わりたいけど、変われない。そんな時どうする?

好きになる作品の共通点として、出てくるキャラクターのほとんどを好きになる。 妖アパに出てくるキャラクターも、みんな大好きですが、やっぱりわたし的ナンバーワンは龍さん。 圧倒的一位、揺るぎない一番 次点は千晶先生かなぁやっぱり。

その龍さん沼にはまったのが第1巻のこのくだり(妖怪アパートの住人たち)

昔は、緑と土と水が豊かで、人間たちの心も豊かで、暗闇がたくさんあって、オバケたちもあちこちに暮らしていたと思うよ。でも、今の世の中には自然がない。暗闇もない。人間たちは心を閉ざしてしまっている。オバケたちは追いやられているんだ。 ”不思議”は、すごそこにあった。人の手の届くところに。人のすぐ隣に。人と不思議は共存していたんだ。それが当たり前だった。人間たちが”合理性”、”便利性”を優先させるため一方的に切り捨ててしまったのは、目に見える自然だけじゃないんだな。 時とともに、変わらないものなどないよ。人の暮らしも、自然のあり方も、妖怪たちの存在も、幸せも豊かさも、変わってゆくものだから…… 苦しみも哀しみも、物事のたった一面にしか過ぎない。ましてや君はまだ若いんだ。現実はつらいばかりじゃない。君さえその気になれば、可能性なんて無限にあるんだ。考え方一つで世界は変わるよ。君の常識があっという間に崩れたようにね。 君の人生は長く、世界は果てしなく広い。肩の力を抜いていこう。 魂は時間とともに連綿として永遠だけど、私たちが垣間見ることができるのはほんの一瞬であり、私たちの存在もあやうく心もとないものだ。轟々と渦巻く時間と運命の前で、大宇宙の下で、無限の次元の狭間で、私たちは砂粒ほどにも満たない。それでも、この次元を支えている源であることには変わらない。生きて、暮らして、活動することが、この次元を支えることになる。そうして次元の命というものは、鎖のようにつながって次から次へとエネルギーを送って行くんだ。どんな形であれ、生きることそのものに使命があり、価値がある。宇宙を貫く軸の一端を担っていることになるんだ。 俺にはよくわからない話だった。でも、聞いていてなんだかとても気分が良かった。なんだか、詩の朗読を聞いているような感じだった。言葉の意味はわからなくても、そこに込められた思いみたいなものが「音」になって脳に直接届くような・・・・そんな感じだった。もっと聞きたい。もっと何か話してくれ。龍さんはそんな気にさせる人だった。  

こうなりたい、より、こうありたい

こんなふうにありたい。「在り方」の理想、龍さん。

俺にはよくわからない話だった。でも、聞いていてなんだかとても気分が良かった。なんだか、詩の朗読を聞いているような感じだった。言葉の意味はわからなくても、そこに込められた思いみたいなものが「音」になって脳に直接届くような・・・・そんな感じだった。もっと聞きたい。もっと何か話してくれ。龍さんはそんな気にさせる人だった。

最初にアニメから入ったためか、この「聞いていてなんだかとても気分がいい」とか「詩の朗読を聞いているような感じ」というのは森川智之さんの声によるところも多分にあるとはいえ、龍さんが自分で体験した上で紡ぎ出される言葉、龍さんが優しいだけの人じゃない、というところから滲み出てきているのだと思う。

人は他人からのアドバイスを受け入れたり受け入れなかったりする。後から考えてみれば、あの人が言ってくれたことは、今この人が言ってくれてることと同じだったのに、なぜ素直に聞けなかったのか?と思うことはよくある。 本もしかり。似たような内容の本を何冊か読むと、言葉がすーっと入ってきて腑に落ちるのと、そうでないの。よく読むとメッセージとしてはほぼ同じ。

相性、と言ってしまうと身も蓋もない話だが、やはりそこは相性。

言ってくれた人と自分との関係性、その相手が発した言葉と自分との相性、それらのどちらか、または両方がピタリとはまると、そのアドバイスだったり助言だったり、体験談は自分にとって価値あるものとして耳の奥まで入りこみ、心に滲みていく。

夕士が「言葉の意味はわからなくても、そこに込められた思いみたいなものが「音」になって脳に直接届くような」と言ったように。

龍さんは、「在り方」が美しく素敵。いつも涼しげで、見守ってくれていて、言葉に温かみと深みがある。人を魅了する。

よく「あの人みたいになりたい」「ああなりたい」「こうなりたい」というけれど、人は真似ることはできても他人になることはできない。こういう言葉を吐くとき、たいていは「あの人”のように”」じゃなくて実はもっと「あの人の人生を生きたい」「あの人と入れ替わりたい」ぐらい羨ましいと思っていることが多い。

真似てスキルを身につけても「あの人”みたいにできた”」り「あの人っぽくできた」ことにはなってもやっぱり「あの人になる」ことはできない。

だけど「あの人みたいにありたい」ってのは可能。 自分のままでいられて「あの人」のいいところを取り入れるだけのことだから。変わる必要もない。増える、広がる。そんな感じ。

変わりたいけど変われない、と思ってモヤモヤするよりも、実はずっとカンタンで心地いい。

在り方を裏打ちするものとは?

あり方が素敵な人、憧れる人。ああいう風に「ありたい」と思わせる人。 共通するのは、多面性、深み、幅。そういうもの。

あんな風にありたくない、という人を裏返せばすぐわかる。 薄っぺらい、深みがない、人として狭小、とか言われて嬉しい人はいない。どれもほめことばから程遠いし、言われたら相当凹む。ケチ、とか意地が悪い、とか言われる方がよっぽどマシ。

なら、その深みやら多面性、それに幅ってどうやったら身につくんだろう? 龍さんに聞いてみる。

昔は、緑と土と水が豊かで、人間たちの心も豊かで、暗闇がたくさんあって、オバケたちもあちこちに暮らしていたと思うよ。でも、今の世の中には自然がない。暗闇もない。人間たちは心を閉ざしてしまっている。オバケたちは追いやられているんだ。 ”不思議”は、すごそこにあった。人の手の届くところに。人のすぐ隣に。人と不思議は共存していたんだ。それが当たり前だった。人間たちが”合理性”、”便利性”を優先させるため一方的に切り捨ててしまったのは、目に見える自然だけじゃないんだな。 時とともに、変わらないものなどないよ。人の暮らしも、自然のあり方も、妖怪たちの存在も、幸せも豊かさも、変わってゆくものだから・・・・ 苦しみも哀しみも、物事のたった一面にしか過ぎない。ましてや君はまだ若いんだ。現実はつらいばかりじゃない。君さえその気になれば、可能性なんて無限にあるんだ。考え方一つで世界は変わるよ。君の常識があっという間に崩れたようにね。

物事の一面だけを見る。ある。あるある。 それしかない、それ以外ありえない、と視野も考えも狭くなる。見ようとしなければそこしか見えない。他にもあるかもしれないと思わなければ、”別の”見方はできない。思いこんでしまうと見えてこない、目に入っていても、認識できない。いつだったか大流行りした「絵の中にイルカが見えるか、抱き合う男女が見えるか」というあれのように。

そういう意味で想像力は多面性の母と言っていい。

深み、幅は、多面性の後についてくるはず。多面的なものの捉え方ができるようになる=他のことを受け入れることができる、とも言える。深みや幅、というのは違うものを受け入れることができなかったり、違いを違いとして認められないとその時点で多面性は認められない。

つまりは想像力があって、受け入れる力があればいい。

おや?これってば以外とカンタンじゃない?

変わる、より、広げる

今、目の前の現状がどうしても嫌な時、変わりたいと人は思う。 周りは変えられないけど自分は変えられる。 だから、自分が変われば、この現状を変えられるはず。 だから変わりたい、と。

だけどそう思えば思うほど、変わらない自分に苛立つこともある。 変わりたいのに変われない。 なんで?この自分は嫌なのに、変わりたい。のに。 変われない。いやだ、変われない自分。

そんなこと、ないのに。 昨日と同じ自分は今はいないのに。 昨日から何かしら、確実に、変わってるのに。

時とともに、変わらないものなどないよ。人の暮らしも、自然のあり方も、妖怪たちの存在も、幸せも豊かさも、変わってゆくものだから……

変わるより、広げる。そう思ったらもっと楽になれるよ。 だって、すでに変わっているのだから。 変わっている自分を受け入れる。 気づかなかったもの、知らないもの、異なるものを受け入れる。 受け入れた分だけ、私は、俺は、確実に大きくなっているのだから、広がっているのだから。